二つの「ミッション指向型イノベーション政策」の思考と政策形成(その2)

3 日本における「ムーンショット研究開発制度」

(1)目的と概要
日本で立案されている「ムーンショット研究開発制度」は、2018年6月に開催された総合科学技術・イノベーション会議で提起され、同年12月の同会議で方針「ムーンショット型研究開発制度の基本的考え方について」(文書⑩)が採択されたものである。同制度は「我が国発の破壊的イノベーションの創出を目指し、従来技術の延長にない、より大胆な発想に基づく挑戦的な研究開発(ムーンショット)を推進する」ことを目的としている。具体的には、困難だが大きなインパクトが期待される社会課題を対象に野心的な目標を設定し、世界中の研究者により目標の実現を目指すとしている。その際、「我が国の基礎研究力を最大限に引き出す挑戦的研究開発を積極的に推進し、失敗も許容しながら革新的な研究成果を発掘・育成に導く」ことに力点が置かれている。その背景として、「基礎研究段階にある様々な知見やアイデアが驚異的なスピードで産業・社会に応用され・・・様々な分野において破壊的なイノベーションが生み出されつつある」という現状認識が示されている。また、研究成果を円滑に社会実装するために、多様な人々との対話の場を設けるとともに、人文社会科学を含む様々な分野の研究者が参画できるような体制を構築すべきことが謳われている(以上、文書⑩)。平成30年度補正予算で1,000億円、令和元年度補正予算で150億円が計上され、最長10年間の支援が可能な基金として設定されている。

「人々の幸福(Human Well-being)」を目指し、「その基盤となる社会・環境・経済の諸課題」を解決するべく、2020年1月23日に発表されたのが、7つの「ムーンショット目標」である(文書⑪)。目標はそれぞれ、(1)2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現、(2)2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現、(3)2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現、(4)2050年までに、地球環境再生に向けた持続可能な資源循環を実現、(5)2050年までに、未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出、(6)2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現、(7)2040年までに、主要な疾患を予防・克服し100歳まで健康不安なく人生を楽しむためのサステイナブルな医療・介護システムを実現、という7項目である。それぞれのムーンショット目標には、具体的な小目標が「ターゲット」として複数個設定されている。なお、合計33個のターゲットのうち、技術イノベーションのみに関わり、社会イノベーションには無関係なものは28項目である。

JSTおよびNEDOを含む4つの国立研究開発法人が、これら7つの目標に関わる研究を推進する。各々のムーンショット目標にはプログラムディレクター(PD)が任命される。PDは、応募のあったプロジェクトを選抜し、選抜された複数のプロジェクトを管理する。また、プロジェクトのポートフォリオは随時見直すこととされるが、それと同時に、「成功の見込みが低いが著しい研究成果を得られるプロジェクト」をポートフォリオに含めるなど、失敗を許容する点が強調されている。(文書⑩⑭)

(2)現実の問題と認識
政策の背景として挙げられているのは、「欧米や中国では、破壊的イノベーションの創出を目指し・・・野心的な構想や困難な社会課題の解決を掲げ、 我が国とは桁違いの投資規模で・・・挑戦的研究開発を強力に推進している」(文書⑩)という認識である。確かに日本でも、2013年度から5年間実施された「革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)」では、開発成功時のインパクトは大きいと期待されるものの、必ずしも成功するとは限らない、「ハイリスク・ハイリターン」の研究開発が指向された。しかし現実には、「将来の破壊的イノベーションの創出を予期させるような大胆さや斬新さが不足するケースもみられ、必ずしもハイインパクトなものばかりではない」などの指摘がなされるとともに(文書⑩)、「具体的成果を求める出口志向に途中で傾いてしまった」(内閣府参事官・鈴木富男氏/『朝日新聞』2019年6月6日)という当局者の反省が表明されている。すなわち、ムーンショット研究開発制度は、このプログラムをより野心的にし、より失敗と挑戦を許容する後継プログラムとして位置づけられていると見ることができる。

政策立案に当たって体系的な現状分析に依拠しているかどうかを、公開されている政策文書からうかがい知ることはできない。ただ、日本は産業や社会を変革できる独創的な基礎研究を行っているものの、成果を実用に結びつける仕組みが不十分であるという認識が語られ、その例として、ゲノム編集や量子コンピュータが日本の研究者の基礎研究がもとになっていることが挙げられている。「海外に(技術を)持って行かれた。このままだと日本は草刈り場になる」(内閣府参事官・鈴木富男氏 前出)との危機感も表明されている(5)。他方では、「ムーンショットの最終目標も重要だが、達成への過程で行われる多様な基礎研究こそ意味がある。日本の将来を考えれば、こうしたハイリスクな基礎研究が欠かせない」(総合科学技術・イノベーション会議議員・上山隆大氏/『朝日新聞』2019年6月6日)というように、「ハイリスクな基礎研究」に対する支援が十分ではないことを含意する、異なる見解も表明されている。その結果、ムーンショット研究開発制度は、必ずしも首尾一貫していない複数の期待を担わされていることは、以下で詳しく検討するとおりである。

(3)政策形成プロセスと内容
ホライズン・ヨーロッパの「5つの大きな領域」に当たるのが、前出のムーンショット目標である。まずは目標案が「ビジョナリー会議」で議論された後、それを踏まえて総合科学技術・イノベーション会議と健康・医療戦略推進本部が目標を決定した。欧州連合の場合とは異なり、非公開の懇談会1回分を除いては、目標案に関するビジョナリー会議の議事録が公開されている。以下では紙幅が許す限りでその分析も含め、目標決定の過程を検討する。

ビジョナリー会議は2019年3月から7月までに4回開催された。目標案決定までの手順は以下の通りであった。「解決を期待する社会課題や実現すべき未来像」を政府が市民から公募し、1,796件の提案があった。また、一府八省からは111件(文書⑯)、産業界からは46件の提案(文書⑰)があった。これらの素材や「会議」での議論を踏まえて、「既存の研究開発の状況や実現可能性、社会課題としての重要性を念頭に」ムーンショット目標の策定に向けた検討素材が作成され、以後の議論で重要な役割を果たした。検討素材は、一府八省から推薦を受けた各府省の職員26名の検討チームが作成した。その結果、「第2の〈緑の革命〉を先導し、世界の食料・環境問題の解決に貢献」「脳機能を解明して、強い脳を作る」など、合計21項目の検討素材が作られた(文書⑱)。うち19項目は純粋に技術的な課題であることが注目される。

ビジョナリー会議での議論は、いくつもの重要な対立や矛盾、ないしは基本的概念への理解の齟齬を含み、それらが必ずしも政策コンセプトや実施方法の明確化や理解の深化に結びついていない点に顕著な特徴がある。紙幅の都合上、本稿では特に重要だと考えられる2点のみを挙げよう。第1に、技術イノベーションのみならず社会イノベーションも対象となるか否かという論点である。第2回会議では全委員が、技術開発だけではなく社会実装の枠組みも備えた制度とすることが重要だという認識で一致している。特に、北野宏明、落合陽一の両委員は、今日の多くの課題が技術だけでは解決できず、社会システムの変革までをも想定したものが21世紀型のムーンショットだという認識を示している。とりわけ各府省の提案に対して「技術開発案件はありますが、その技術が出来て、世の中がどう変わるのかというところや、これらの技術をどうやって世界中に展開して本当に世の中を変えていくのかというところがないとムーンショットにならないのではないか・・・そうでなければ、普通の技術開発との区別がつかない・・・」(第2回議事録)と述べる北野氏の発言はこの論点を象徴している。

他方では第4回会議で政府側委員の上山隆大氏が「基礎研究といいますか、幅広い、今後何が起こるか分からないようなところの研究ということが同時にサポートされるべきであるということですね」(第4回議事録)と述べ、基礎研究を支援する制度としてこの政策を位置づける発言をしている。この認識は結局、目標策定後に開催された第1回戦略推進会議にも引き継がれた。すなわち、「ビジネスモデル自体を変えていくなど、そういう話を併せて議論していただくというのを付け加えたほうが、この先の社会実装につながっていくように思う。そういったことは、このプロジェクトの射程には入っていないということになるか」という吉村隆氏(経団連産業技術本部長)の問いかけに対して、目標4のPDである山地憲治氏(NEDO)は、「その後、社会に実装していって普及させていくためには、色々な政策的な支援が必要な場面があると思っているが、そこはまた別の機能で補っていくべきではないかと考えている」と述べている。また科学技術・イノベーション会議議員の橋本和仁氏(物質材料研究機構理事長)も、「このようなプロジェクトは、実用化、社会実装ということを最初に言うと、非常に小さく固まってしまう。そういう意味では、最初から実用化とかいうことはあまり言わないで、しっかり研究をやることが大変重要だ」(以上、第1回戦略推進会議議事概要)と述べる。両氏の発言からは、あくまでも先端技術開発プロジェクトとして位置づけ直されるに至っていることがわかる。詳しくは第4節で述べるが、確かに、第1回会議で藤井太洋委員がベーシックインカムの研究開発を提案した事例があるものの、社会イノベーションないし社会変革という論点について会議で詳しく検討された形跡がほぼないことが、この研究開発制度の基本特徴をよく象徴していると言えよう。

第2に、よりマイナーな論点だが、破壊的イノベーションの生成メカニズムに関する認識の齟齬である。野心的だが明確な目標を目指すことで破壊的イノベーションが起きるというのが、この政策の前提となる仮説である。しかし前出の北野氏は、「今回のムーンショット型の研究プロジェクトというのは、行く先が設定されているわけですから、破壊的イノベーションをねらうというより、基本的にラジカル・ソリューションを伴うテクノロジーオリエンテッドなプロジェクトになる」(第1回議事録)「破壊的イノベーションは、コンセンサスからは生み出しにくいでしょう。破壊的イノベーションは、むしろ科研費などの中で・・・より多く出てくると考えるべきです」(第2回議事録)という、破壊的イノベーションの概念史を踏まえれば正当と思われる認識を表明している。破壊的イノベーションは必ずしも技術的な画期性を必要としないので、必ずしも技術開発の産物ではない。他方で、前述のようにこの政策は現実にはほぼ先端技術開発支援政策に他ならない。その意味で北野氏の指摘は、この政策に対して抱かれる大きく広い期待と、プロジェクトが現実に生み出すであろう成果とのあり得る齟齬を予見しているように思われる。

以上の検討より、政策コンセプトに対する認識の深化をもたらしうる多様な論点が出されてはいるものの、結果としてはそれらの論点が踏まえられることはなく、ムーンショット型研究開発制度は従前の政策の延長上に構想されるに至ったということができるだろう。

4 総括と考察〜両者の相違とその背景・含意

欧州連合の「ホライズン・ヨーロッパ」におけるMOI政策も、日本のムーンショット研究開発制度も、社会問題の解決を目指す野心的な目標をバックキャスティング(6)によって定め、それによってイノベーションを促進しようとする枠組みは共通している。また両者とも米国のアポロ計画からインスピレーションを得ており、その継承・発展を狙っているという点でも共通している。しかし、両政策の内容と政策形成プロセスを子細に比較するならば、非常に大きな相違に気づかざるを得ない。すなわち、欧州の政策は技術イノベーションと社会イノベーションの両者を特に区別せず、両者を包括的に促進することによってSDGsの達成を図ろうとする政策である。それに対して日本の政策は、社会問題を解決する可能性がある画期的な技術を生み出すことを目指す政策だということである。端的に言えば、欧州のイノベーション政策が、社会政策や環境政策など、SDGsを指向する諸政策とますます区別できないものとなっているのに対し、日本のイノベーション政策はあくまで科学技術政策の範囲内で依然として構想されているという相違が顕著である。

欧州の政策は、世界で初めて体系的に実施されるMOI政策である。欧州の政策では優れた要素技術は生まれないかもしれないが(7)、より社会の現実に根ざした包括的なイノベーションを促そうとしているため、雇用や経済、産業構造転換へのインパクトを持つ可能性が高いと考えられる。しかし、この可能性が現実化するためには、実際に民間投資を誘発できなくてはならない。これは困難な課題であるが、この課題の解決は何よりも、日米に後れを取っている欧州企業の投資を現実に誘発できるかどうかにかかっている。環境規制を課して民間開発投資を刺激し、イノベーションを促すというような施策が、欧州のMOI政策でも念頭に置かれていると思われる。しかしながら、環境規制がイノベーションと新産業を生み出した重要な事例である、日本における自動車排ガス規制の事例が示すように(8)、環境規制を忌避する企業の同意を調達することは容易ではないし、またそもそも政府自身が厳格な規制を回避するケースさえしばしば存在する。そうだとするならば、利害関係者間の討議と、そこで挑戦的な内容の合意を形成する社会的能力が極めて重要であろう。またそもそも、長期にわたる不確実な開発を支える「忍耐強い資本」が足りないという、金融構造の根深い問題もある。加えて、短期的な収益を求める、英米流の株主重視型の企業統治は欧州でも普及しており、不確実性が大きい長期的な研究開発投資にとり有利な環境とは言えない(Lazonick and Shin, 2020)。さらに、各国の緊縮財政は政府による長期的・戦略的投資を困難にしており、このことがMOI政策の大きな障壁になることは想像に難くない。このように、欧州のMOI政策は乗り越えるべき深刻な困難を相当多く抱えているということを強調せねばならない。

他方、日本の場合、優れた要素技術を生み出す可能性はあるが、それが期待通りに、社会や雇用・経済、産業転換に結びつくかどうかは極めて不確実である。事実、第3節で検討したように、達成すべき目標を革新的な技術開発に限定し、社会への普及は別問題として扱うという形で、この懸念はすでに政策形成に織り込まれている。その意味ではますます、ムーンショット型研究開発制度を一般の科学技術政策と区別することは困難になる。そうだとすれば、破壊的イノベーションの創出や大きな社会経済的インパクトを期待する組織・個人による不満が、政策の正統性を揺るがす可能性も否定できないだろう。

最後に、欧州MOI政策とその政策形成プロセスから日本が学びうることを2点ほど挙げておきたい。第1に、技術・イノベーション・社会の連関をどう捉えるかという点である。第3節で検討したように、日本の「ミッショナリー会議」では、社会システムの考慮が重要であることが強調されている。その際の発想は、イノベーションを受け入れるために社会を変えるべきというものである。またそのバリエーションとして、技術革新だけでは問題解決にはならず、社会変革「も」必要だという見解も表明されている。「社会実装」という概念は、こうした思考法を象徴したものだと見なすこともでき、いわゆる「リニアモデル」(Kline and Rosenberg, 1986)の一変種と捉え得ることを強調したい。しかし例えば、ボトムアップ的な共創でイノベーションを生み出せるように自治体や大学、企業、市民社会の協働をエンパワーする場合のように、イノベーションを生み出す社会システムを刷新するという発想は、会議では採られていないように思われる。これは欧州連合との大きな違いであり、あくまで、専門家が開発する技術イノベーションありきで、それを受け入れさせるための社会変革という発想がとられている。社会、技術・イノベーションと政策の対象の構図を模式化した図1は、日本の政策(b)が「技術・イノベーションを生み出す社会システム」と「技術・イノベーションを使う社会システム」を切断して捉えており、前者をアクティベートする政策を構想していること、および、欧州の政策(a)が双方の社会システムを相当重複するものと捉えたうえで、両者を包括してアクティベートする政策を構想していることを示している。技術・イノベーションは社会にインパクトを及ぼすが、その技術・イノベーションを生み出すのも広い意味での社会である。この認識は、およそ先行研究が共有してきたものであり、その意味では、日本の政策が依拠する技術・イノベーション・社会の連関に関する認識は十分に包括的なものではないと言うことができる。今後もしMOI政策を本格的に展開する場合、早晩直面する課題であろう。

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図1 技術・イノベーション・社会

第2に、これまでの政策実践事例の分析や概念的な検討、また広範囲な利害関係者の討議を経て「ミッション」が形成されているという意味で、欧州では政策の意味やミッションの内容についてはかなり広い社会的合意が形成されていると考えることができる。また特定の人物の知見・能力と判断に過度な負荷がかかることは少なく、不確実性が極めて高い政策の形成プロセスとして一定の合理性があると言えるだろう(9)。日本の場合、こうした入念な検討と討議プロセスを欠いていることは明らかである。従来の科学技術政策の延長線上に今回の研究開発制度を位置づけるならば、こうした検討と討議は不要なのかも知れないが、大きな不確実性に直面せざるを得ない本格的なMOI政策を指向する場合には、この欠落は大きな問題を生み出す可能性があるだろう。

5 結語

以上の検討から明らかなように、欧州のMOI政策は伝統的な技術プッシュ型のイノベーション政策ではなく、野心的な目標達成を社会に課すことによってイノベーションを政策的に促そうという試みである。目標ドリブンによるイノベーション促進を体系的に行おうとしている点にその画期性がある。それは第四節で述べた通り、政策文書が想定するような安易なプロセスではなく、逆に相当な困難に直面するものであると予想される。その意味でも、イノベーション政策の歴史における大きな実験だといって差し支えないだろう。残念ながら本稿はひとえに政策文書に依拠して分析を進めるほかなかったが、今後の政策実践を実験プロセスとして批判的に観察・分析・考察していくことは、イノベーション政策に関する新たな知見を得るためにも、また、コロナ禍からの社会経済復興を構想するためにも、残された枢要な課題であることを強調して、本稿を閉じることにしたい。

 

5 歴史的経験や先行研究による知見と照らし合わせれば、ここで表明されている認識にはいくつかの問題がある。第1に、1980年代に米国から日本に対して行われた「基礎研究ただ乗り」批判とその実態が示唆するように、基礎研究を実施した企業・国が経済的利益を獲得できるとは限らないということである。Mowery and Rosenberg (1989) などの一連の研究が説得的に明らかにしたように、米国企業が開発投資を十分に行わなかったことに、米国経済・企業が経済的成果を得られなかった根本的な理由がある。この理屈は今日の日本経済・企業にも該当する可能性が大きいが、政策立案に当たって検討された形跡は見られない。第2に、野心的目標を掲げることが破壊的イノベーションを生み出す可能性を高めるという、政策の根幹にかかわって想定されている因果関係の根拠が不明である。総じて、これまでの研究上の知見が政策立案に生かされていないことは事実であろう。

6 少なくとも確認可能な日本の事例の場合、バックキャスティングとフォアキャスティングの混同が見られるなど、十分に原理的に詰められぬままにバックキャスティングが行われてしまっているように思われ、バックキャスティングによる政策形成には課題が残されている。バックキャスティングを精緻に行うための技術は、名古屋工業大学でも江龍修、加藤雄一郎両氏を中心に開発されてきた。現在では田口亮氏を中心に彫琢と拡張が続けられ、社会人イノベーションコースの演習などで活用されている。その思考法が展開されている論考として、江龍(2018)を参照されたい。

7 ただしすでに述べたとおり、ホライズン・ヨーロッパでは基礎科学と先端技術開発を促進するプログラムが大きな比率を占めており、先端技術開発が等閑視されているわけでは全くない。

8 この事例は事後的に見れば、環境規制が技術革新を誘発し企業の競争力を高めるという「ポーター仮説」が妥当する。自動車産業の国際競争力を高めたし、触媒関連の新産業も創出され、まさに経済的な利益がもたらされた。しかし、政府や産業界が利益を事前に予見していたわけではもちろんない。革新自治体の七大都市自動車排気ガス規制調査団に参加した西村肇氏(当時東大工学部助教授)による同(1976)第2章は、彼らが直面した企業、政府による頑強な抵抗を伝えている。この種の政治がしばしば不可避であることを、MOI政策論は無視すべきではないし、そこに困難がありうることを認識すべきだろう。

9 討議過程における視角の多様性がより優れた問題解決策をもたらす条件については、Page (2011) が単純な数理モデルに基づいて明晰に論じている。むろん現実には、妥協的で質の低い合意形成にしばしば陥るし、討議参加者の視角・価値の相違が無視され得る。だからこそ、多様性の利益を現実に得るためには参加者の社会的スキルが必要になるだろう。その典型例は、対話の中から対象に対する新しい解釈を見出していく能力である(Bohm, 1996)。加えて、彼が推奨する「ピースミール社会工学」の文脈でPopper (1987) が強調するように、政策実施前の討議は「想像上の試行錯誤」であって、あらかじめ「過ちを排除する」意味がある。総じて、欧州での政策形成における集団討議は以上のような利益をもたらした可能性があるということである。

 

文献

江龍修(2018)「マイクロビジネスグリッドによる新規価値創造」『Trans/Actions』第3号
徳丸宜穂(2017)「EU・フィンランドにおけるイノベーション政策の新展開~「進化プロセス・ガバナンス」型政策の出現とその可能性」八木紀一郎・清水耕一・徳丸宜穂編『欧州統合と社会経済イノベーション~地域を基礎にした政策の進化』日本経済評論社 所収
徳丸宜穂(2020)「ミッション指向型イノベーション政策とコーディネーション」宇仁宏幸・厳成男・藤田真哉編『制度でわかる世界の経済~制度的調整の政治経済学』ナカニシヤ出版 所収
西村肇(1976)『裁かれる自動車』中公新書
リチャード・R・ネルソン(2012)『月とゲットー~科学技術と公共政策』(後藤晃訳)慶応義塾大学出版会
Bohm, D., 1996, On Dialogue. Routledge
Dosi, G., Llerena, P. and Sylos-Labini, M., 2006, The relationships between science, technologies and their industrial exploitation: An illustration through the myths and realities of the so-called European Paradox, Research Policy 35(10), 1450-1464.
Institute for Innovation and Public Purpose, 2020, A green economic renewal from the COVID-19 crisis, UCL IIPP COVID-19 Briefing Papers 04 (June 2020)
Kline, S.J. and Rosenberg, N., 1986, An overview of innovation, in Rosenberg, N. and Landau, R. eds., The Positive Sum Strategy: Harnessing Technology for Economic Growth. National Academy Press.
Lazonick, W. and Shin, J-S., 2020, Predatory Value Extraction: How the Looming of the Business Corporation Became the U.S. Norm and How Sustainable Prosperity Can Be Restored. Oxford University Press.
Mazzucato,10 M., 2013, The Entrepreneurial State. Anthem Press.
Mowery, D.C. and Rosenberg, N., 1989, Technology and the Pursuit of Economic Growth. Cambridge University Press.
Nelson, R., 1959, The simple economics of basic scientific research, Journal of Political Economy 67(3), 297-306.
Page, S., 2011, Diversity and Complexity. Princeton University Press.
Perez, C., 2002, Technological Revolutions and Financial Capital: The Dynamics of Bubbles and Golden Ages. Edward Elgar.
Perez, C., 2016, Capitalism, technology and a green global golden age: The role of history in helping to shape the future, in Jacobs, M. and Mazzucato, M. eds., Rethinking Capitalism: Economics and Policy for Sustainable and Inclusive Growth. Wiley Blackwell.
Popper, K.R., 1987, Natural selection and the emergence of mind, in Radnitzky, G. and Bartley, W.W. eds. Evolutionary Epistemology, Rationality, and the Sociology of Knowledge. Open Court.

資料(本文言及分のみ)
① European Commission Directorate-General for Research and Innovation, 2017, LAB-FAB-APP--- Investing in the European Future We Want: Report of the Independent High-Level Group on Maximising the Impact of EU Research and Innovation Programmes.
② European Commission Directorate-General for Research and Innovation, 2017, Towards a Mission-Oriented Research and Innovation Policy in the European Union: An ESIR Memorandum.
③ European Commission, 2018, Communication from the commission to the European Parliament, the Council, the European Economic and Social Committee and the Committee of the Regions: Horizon 2020 Interim Evaluation.
④ European Commission Directorate-General for Research and Innovation, 2018, Mission-oriented Research and Innovation: A RISE Perspective.
⑤ European Commission, 2019, Co-Design towards the First Strategic Plan for Horizon Europe: A Report on the Web-based Consultation and on the European Research and Innovation Days.
⑥ European Commission Directorate-General for Research and Innovation, 2020, Conquering Cancer: Mission Possible.
⑦ European Commission Directorate-General for Research and Innovation, 2020, 100 Climate-Neutral Cities by 2030: by and for the Citizens.
⑧ Mazzucato, M., 2018, Mission-Oriented Research and Innovation in the European Union: A problem-solving approach to fuel innovation-led growth. European Commission.
⑨ 総合科学技術・イノベーション会議(2018)ムーンショット型研究開発制度の推進について
⑩ 総合科学技術・イノベーション会議(2018)ムーンショット型研究開発制度の基本的考え方について
⑪ 総合科学技術・イノベーション会議(2020)ムーンショット型研究開発制度が目指すべき「ムーンショット目標」について
内閣府(2019)ムーンショット型研究開発制度の創設
内閣府(2020)ムーンショット型研究開発制度の概要
内閣府ほか(2020)ムーンショット型研究開発制度の運用・評価指針
⑮ ビジョナリー会議(2019)ムーンショット型研究開発制度が目指す未来像及びその実現に向けた野心的な目標について(案)
⑯ ビジョナリー会議(2019)ムーンショット目標策定に向けて関係府省から寄せられた検討素材
⑰ ビジョナリー会議(2019)産業界からのアイデア提案
⑱ ビジョナリー会議(2019)ムーンショット目標の策定に向けた検討素材の作成について

二つの「ミッション指向型イノベーション政策」の思考と政策形成(その1)

(※『Trans/Actions』第5号に書いた拙稿を採録したものです)

1 はじめに

世界金融危機以降の先進諸国は、国別に濃淡はあるものの、基本的には一貫して深い経済停滞の中にある。新型コロナウイルス感染症が、この経済停滞を一層深刻なものとしていることは言うまでもない。この間、特に南欧で顕著だったが、緊縮財政によって各国の医療・保健システムが脆弱化していることに注目が集まった。また、人類の環境負荷がますます高まっていることがこの感染症の根底にある要因だという見解も有力である。こうした認識を踏まえて、ヘルスケアや環境負荷に関わる社会課題を解決するイノベーションを生み出し、持続的な経済成長を可能にすることによって、今回の深刻な経済危機を脱するべきだとする戦略が、欧州を中心に盛んに提起され始めている。その背景には、巨額の財政支出によって金融システムを応急措置的に救済したものの、巨大な金融危機を生み出した経済の「金融化」という構造的な問題を解決し得ず、新たな時代の経済システムを生み出す方向に向かえなかったという、世界金融危機以降の経済政策への苦い反省がある。具体的には、社会の問題を解決し、人々の安心・安全な生活を支える生産的な経済構造を作り得ず、様々な要素技術の潜勢力が開花する新しい時代を切り拓く契機にできなかったということである(Perez, 2016)。この反省を踏まえ、コロナ禍に対する財政支出が、経済格差を拡大する旧来の金融化した経済構造、あるいは環境負荷が大きい産業構造を温存するだけのものとなってはならず、社会問題を解決する新たな産業・雇用を生み出す形で経済を刷新しながら経済復興を図るという目的に向けて支出されるべきだという提案がなされている(1)。

先進諸国で改めて「ミッション指向型イノベーション政策」(Mission-oriented innovation policy:以下「MOI政策」と略記)が注目されているのは、こうした社会的文脈においてである。MOI政策は、上記のような大きな社会問題を解決するイノベーションを生み出すことを目的としたイノベーション政策である。この政策によって、社会問題の解決と産業・雇用の刷新、ひいては持続可能な経済成長を両立させることが目指されている。経済学はこれまで、市場における私企業の活動に委ねると問題が生じる場合に限って、その補正のために政策介入が正当化されると論じてきた。例えば、収益を得られる可能性が小さい以上、私企業には基礎研究に投資を行う動機付けが弱いから、政府が基礎研究に投資を行うことは正当である、というのが典型的な議論である(Nelson, 1959)。しかし、MOI政策が生み出そうとする革新的な財・サービスにはそもそも市場が存在しないので、イノベーションを方向づけ、新しく市場を創造するために、公共政策にはより積極的な役割(2)が求められる(Mazzucato, 2013)。自動車の排気ガス規制が敷かれたことによって、触媒技術の巨大市場が創出されたというのは、その古典的な事例に他ならない。

以上のことから、大きな期待を背負っているMOI政策の可能性と限界について、またその政策実践について検討する必要性は高まっているということができる。本稿が詳しく検討するように、折しも欧州も日本もMOI政策をほぼ立案し終え、開始しつつある。双方の基本性格を的確に理解することは、各々の異なる可能性と限界を見定める上で不可欠である。そこで本稿では、政策の準備過程で公開された双方の政策文書を詳細に検討することによって、両者の政策アプローチの共通性・相違を明らかにし、それによって双方の可能性と、直面すると予想される課題について論じることを目的とする。政策に対する十全な評価はむろん実施後に可能になるので、それを現段階で期待することはできないが、それでもなお、両者の特質について重要な知見を得ることは不可能ではないと考えるためである。以下、第2節と第3節ではそれぞれ、欧州連合と日本で立案されているMOI政策の概要と背景、政策形成プロセスについて検討を行う。そのうえで第4節では両者がいかに異なっているかを明らかにした上で、その背景と含意について議論したい。

2 欧州連合における「ホライズン・ヨーロッパ」プログラム

(1)目的と概要
「ホライズン・ヨーロッパ」は、欧州連合が2021年から7年間実施する、予算総額1,000億ユーロの研究・イノベーションプログラムで、2020年まで実施されている「ホライズン2020」の後続プログラムある。プログラムは、(1)卓越した科学(258億ユーロ)、(2)グローバル課題と欧州産業競争力(527億ユーロ)、(3)イノベーティブ・ヨーロッパ(135億ユーロ)の3つの柱からなる。(1)は基礎科学振興、(2)はSDGs達成のための技術・ソリューションの開発促進、(3)はブレイクスルー型のイノベーションとエコシステム創出の促進がそれぞれの主旨である。

53億ユーロが配分されたMOI政策は(2)に含まれ、今回新たに盛り込まれた目玉政策の一つである。ミッションとは「社会に対して強いインパクトがあり、人々を鼓舞し、かつ成果を図ることができる目標」を意味する。ミッションを設定するのは、研究とイノベーションをより一層、社会や市民のニーズに結びつけるためである。具体的には、広範囲にわたる社会的問題が「課題」、それを解決するための特定の手段・行動群が「ミッション」である。課題は「A型」と「B型」に分けられ、前者は解決可能性があり、目標設定が容易なものであるとされ、1960年代のアポロ計画での「ムーンショット」がその典型例である。それに対して後者は解決策が未知で、問題も複雑で容易に定義できない(wicked problem)とされる(3)(RISE報告書④)。アポロ計画のように、ミッションを設定し、その実現に向けてイノベーションを創出するというミッション指向型の政策はこれまでにも行われてきたが、そこでは目標設定や手段の策定から、実施過程でのモニタリングに至るまで、すべて中央集権的に行われてきた。しかし、今回計画されているMOI政策では、計画と実施の分権化を図り、分権的な実験の自由度を高める点に特徴があるとしている(ESIR報告書②)。

具体的なミッションを設定すべき五つの大きな領域は、(1)社会の転換を含む気候変動への適応、(2)ガン、(3)健全な海洋と水質、(4)気候中立的なスマート都市、(5)健全な土壌と食料である。これらの領域に具体的なミッションを設定して公的研究開発投資を実施し、民間企業の収益期待を向上させることにより、日米の後塵を拝している民間研究開発投資を呼び込むことを見込んでいる(ESIR報告書②、Mazzucato報告書⑧)。五つの領域にはそれぞれ理事会(Board)と議会(Assembly)が設置されている。彼らが2020年5月までに具体的な目標とスケジュールの案を策定し、九月までにミッションを具現化することになっている。技術イノベーションと社会イノベーションの両方によって問題解決を図ることが期待されているのは、後述の通りである。

(2)現実の問題と認識
欧州連合では、米国や日本、中国に対してイノベーション投資・成果の両面で劣後しているという認識が根深く存在する。とりわけ、公的研究開発投資の対GDP比はこれら諸国を上回っているにもかかわらず、それが民間研究開発投資を誘発できておらず、生産性上昇にも結び付いていないとされる(ESIR報告書②)。基礎研究ではフロントランナーであるにもかかわらず、イノベーション成果を生み出し得ていないのはなぜかという問いは、「欧州パラドックス」の名の下に議論されてきた。その認識に基づいて、欧州連合の政策は大学や研究機関と民間企業の連携を強化して、基礎研究の知見を産業に移転することに注力してきた。しかし、Dosi et al. (2006) の分析は、基礎研究でもトップランナーであるという認識は正しくはなく、また企業側の研究開発投資および設備投資の努力が不十分であることを明らかにしている。以上より総じて、民間企業の研究開発投資が相対的に小規模であることが、欧州のイノベーション成果を高めるうえでの一大制約になっているということが共通の認識となってきている。こうした事実認識に基づいて、民間企業の研究開発投資を誘発することができる政策アプローチとしてMOI政策が立案されているということを強調する必要があるだろう。伝統的な科学技術政策ないしイノベーション政策が、補助金や減税等の手段で研究開発投資を促進して、いわば供給サイドからイノベーションをプッシュすることに力点を置いているのに対し、MOI政策の大きな特徴は、社会的なニーズを明確化しそれを満たす開発を促進することにより、いわば需要サイドからイノベーションを誘引する性格を持っているという点にある。需要サイドに力点を置いた体系的なイノベーション政策の提案は、少なくとも欧州連合では、2006年に発表された「Aho報告書」(Commission of the European Communities, 2006, Putting Knowledge into Practice: A Broad-based Innovation Strategy for the EU)に遡ることができるし(徳丸 2017)、2020年までの7年間の研究・イノベーションプログラムである「ホライズン2020」にも「社会課題とイノベーション・パートナーシップ」プログラムとして導入されている。だが、ホライズン2020の中間評価は、前出のプログラムが社会経済に大きなインパクトをもたらしていないと結論付けた(RISE報告書④)。中間評価報告書は6つの提言をとりまとめたが、その1つに、ミッションの設定と広範な市民参加によって一層大きな社会経済的インパクトを与えるべきという項目が盛り込まれた(Lamy報告書①および中間報告書③)。これらの経緯から分かることは、需要主導型イノベーション政策の一環であるMOI政策は一朝一夕に登場したわけではなく、欧州連合や各国での長期間の検討・実践を十分に踏まえて登場しているということである。その意味では、当事者たちがミッションの新規性を強調したいことは理解できるにせよ、事実としては、新規性を過度に強調するのは適当ではなく、むしろ過去の政策実践からの発展という連続性も強調する必要があるだろう。

(3)政策形成プロセスと内容
既に述べたように、MOI政策は、ホライズン2020プログラムへの中間評価報告書と、欧州委員会ハイレベル専門家グループによる「Lamy報告書」(2017年7月)で提言されたことが直接の発端となっている。その後、経済・社会的インパクト専門家グループによる経済的合理性に関する評価が「ESIR報告書」(2017年12月)として、また、ミッションの考え方や選定方法・基準などに関する、研究・イノベーション・科学専門家ハイレベルグループによる検討結果が「RISE報告書」(2018年2月)としてそれぞれ発表された。これらを踏まえ、科学アドバイザーに任命された経済学者マッツカート氏による「マッツカート報告書」が2018年2月に発表され、ここではミッション選定の重要な基準などについて検討された。2018年6月に欧州委員会が公表したホライズン・ヨーロッパのプログラム案は、方法論や概念、経済合理性などに関する、これらの多角的な検討の上に成り立っている。

MOI政策は概念的な検討のみならず、これまでの政策実践も踏まえて登場していることは、政策立案に当たって、日本、米国を含む11か国ですでに実施されたMOI政策について、17の事例が詳細に分析・検討されていることにも表れている。日本については「水素社会」関連政策が事例として取り上げられている。これらの事例ではいずれも「ミッション」という概念が使われているわけではなく、また必ずしもイノベーション政策としては理解されてもいないが、社会的な課題を解決するイノベーションを政策的に促そうとしている点では共通している。17本の事例報告書は2018年3月に、また以上の事例を分析・評価した2本の総合報告書は同年5月に刊行されている。

政策の構造上、MOI政策の成否を決めるうえで重要な一条件は、個々のミッションがいかなる検討を経て、どのような基準で決まるかということだと考えられる。前出のマッツカート報告書の提言を受けて、ウェブページで公開されている欧州委員会が立てたミッション選定方針は以下の通りである。期待されるアウトカムは明示されるものの、それを実現するための具体的な方策はボトムアップで多様に構想されるべきだとされる点に特徴がある。

・大胆で人々を鼓舞し、社会全体にとって関わりがあること
・明確な焦点を有し、定量化可能で、一定期間内で達成可能であること
・社会的インパクト指向だが現実的な目標であること
・多様な資源を動員するものであること
・異なる領域の異なる研究・イノベーション活動を結節するものであること
・現存するシステムの問題を解決するのではなくシステムの転換を促すものであること
・市民が研究・イノベーション投資の価値を理解しやすいものであること
 
 上述の通り、5つの領域の理事会と議会が具体的なミッションを策定するが、ここで特筆するべきことは、2019年12月から本稿執筆時点(2020年9月)までの間に、五領域で合計六四件にのぼる各種のワークショップが実施され、利害関係者や市民との実質的な討議が重ねられていることである(報告書⑤)。紙幅の都合上、以下では、2020年5月に公開された5領域のミッション具体案のうち、2つの領域を事例として挙げるにとどめる(報告書⑥⑦)。いずれの場合でも、検討メンバーが部門横断的であることと、技術・社会両面のイノベーションが期待されているということが共通している。

(ⅰ)「気候中立的なスマート都市」領域の場合
理事会メンバーの出身組織情報は不明だが、議会メンバーの構成は、専門組織(研究機関と大学)12名、企業8名、非営利組織6名、行政4名の合計30名であり、部門横断的な構成になっている。ミッション素案はまだ具現化されていないものの、①デジタル技術の応用、②エネルギー効率の向上、③再生可能エネルギー利用と脱炭素化、④すべての人のための効率的移動(クリーンで安全、かつ高いアクセス可能性)、⑤循環型経済、⑥カーボンフットプリントの活用、という六分野でのイノベーションに対する期待が述べられている。いずれにおいても技術イノベーションのみならず社会イノベーションも不可欠だと考えられている。したがって、地方自治体には、企業、大学、市民社会組織と連携して当該ミッションに応募することを期待されている。

(ⅱ)「ガン」領域の場合
 同様に、理事会メンバーの出身組織情報は不明だが、議会メンバーの構成は、専門組織(医療機関、研究機関と大学)17名、企業4名、非営利組織1名、行政1名の合計23名で、やはり部門横断的な構成であることが確認できる。この領域ではすでに13個の具体的なミッション素案が提起されているが、これらのうち、技術イノベーションが関わるものは8個、社会イノベーションが関わるものは12個である(重複を含む)。例えば、「ガン予防プログラムの開発と実施をサポートする」というのはどちらかといえば社会イノベーションに関わり、また「個人向けにカスタマイズされたガン治療アプローチを発展させ実施する」というのは技術イノベーション指向であると考えられる。

前出のRISE報告書④によると、技術プッシュ型の政策とは異なり、MOI政策は社会的な成果に焦点が合わされているために、技術開発者以外の多くの当事者が関わらなくては目標達成も難しい。それゆえに、多くの当事者が合意可能なミッションを構築することが枢要となる。各種ワークショップが重ねられ、またミッションの検討が部門横断的なメンバーによって主導されているということは、ミッション策定に当たっては社会的対話(social dialogue)や共同設計(co-design)を行うべしという同報告書の提言に沿ったものであると言える(4)。

以上より、ミッションの概念や策定基準が入念に検討され、方針が明確化されているという意味でも、また、利害関係者が部門横断的に討議してミッションを策定しなくてはならないという意味でも、ミッション策定が一部の主導者の知見・能力と判断に大きく依存する可能性は高くないと考えられる。この点は、以下の日本の事例とは対照的だと思われる。

 

(1) 例えば、ジェフリー・サックスジョゼフ・スティグリッツマリアナ・マッツカートなどの経済学者が名を連ね、環境問題の解決と公正で活気のある経済復興を両立することを訴えたLetter from economists: to rebuild our world, we must end the carbon economy, The Guardian (August 4, 2020) や、Institute for Innovation and Public Purpose (2020) はその典型例であろう。ことにイノベーション関係では、本稿が扱うMOI政策を含め、イノベーションの方向性にも政府が公的な影響力を行使すべきであるという議論が活発になってきている。例えばDani Rodrik, Democratizing Innovation, Project Syndicate (August 11, 2020) は、現在登場しているイノベーションがごく一部の人間集団の局所的な嗜好やニーズだけを反映し、必ずしも社会のニーズを反映したものとなっていないことを経済学者として問題視している。

(2) もちろん政府の規制や裁量的政策は誤りうるので、この問題は「政府の失敗」の可能性を念頭に構想される必要がある。詳しくは、進化的政策という観点からこの問題を論じた徳丸(2020)を参照されたい。

(3) ネルソン(2012)はその古典的分析の中で(原著出版年は1977年)、月に到達するという課題を人類はクリヤできたのに、なぜ都市の犯罪・貧困などの問題をいまだに解決できないのかと問い、後者のような社会問題にあまねく見いだされる「複雑さ」にその答えを見出している。本文で言及している「A型」「B型」という区分は、ネルソンの「月」と「ゲットー」にそれぞれ対応する。

(4) 実際にRISE報告書④は、ニクソンの「ガン戦争」やオバマの「ガン・ムーンショット」と欧州のガン・ミッションが違うのは、分野横断的な専門家や患者団体、研究者、企業などからなるコミュニティが存在する点にあると強調している。Cancer Core EuropeやCancer Prevention Europeがその種のコミュニティの典型例であるとされる。それによって、ボトムアップで患者中心型のイノベーションを生み出せるし、ミッションの実現に必要なクリティカルマスを作り出せる点が欧州の優位性だという。

はじめまして

徳丸宜穂です.技術経済論・比較政治経済学・企業論・進化経済学の観点から,社会経済体制とイノベーションとの関係について研究をしています.

 

具体的には,次の3つの関連する問題について調査・分析・考察を行っています.1.に重心を置いています.

  1. 少子高齢化,一層のデジタル化,環境負荷の高まりなど,先進諸国に共通する新たな状況に対して,日本とは異なる社会経済システムを持つ先進諸国はどのように創造的に対応しつつあるのか?特に,広義の福祉(welfare)とイノベーション創出を両立可能にする,新自由主義的ではない創造的な対応は,いかに可能なのか?
  2. 地域経済がイノベーションと新産業・雇用を生み出す,真に生きた「孵卵器」となることはいかに可能か?「ハコモノ」を集積させる一時的施策に終わらない,実効的な地域産業政策がいかに行われつつあるのか?それを支える,制度的・組織的・人材的基盤はいかなるものか?企業レベルでの戦略的・組織的刷新はいかに進みつつあるのか?
  3. 東・南アジアの新興経済諸国では,どの程度まで,技術・製品開発の高度化が進展しているのか?それを支える「仕組み」(制度・組織・人材管理など)はどのようなものか?この新しい状況が日本企業・産業,また雇用にどのようなインパクトをもたらしつつあり,いかに対応しつつあるのか?

 

これまで自分のページで気が向いた時にブログを書いていましたが,これからはこちらに書いていきたいと思います.